悪意のRock'n Roll Swindle 〜Coldplay編〜
電車がまた通り過ぎた。視覚で確認した訳ではないが、テレビの音が「ガタンゴトン」という音にかき消されたので、まあ間違いないだろう。時計を見ると14時を少し回ったところだった。この時間だと一時間に上り下り各12本ずつの電車が往ったり来たりしている。時刻表に載っていない貨物列車なんかが走っているかどうかは分からないが、最低でも一時間に24回は「ガタンゴトン」いっているわけだ。テレビは誰に恋人がいるだの、どこそこのシュークリームがとろけるだの、退屈なワイドショーを垂れ流していて、俺は当然見るでもなくザッピングしているのだから、音声が途切れようが差し替えられようがたいした問題ではない。はずだが、実際音声が途切れると、消えた部分を知りたいという欲求にかられ始め、それが一時間に24回のペースで続くのだから、テレビの内容とは別の部分で俺はテレビへの興味を持ち続けることになる。結果的に電車の音が気になり続けるのだ。ザッピングをしていようとスワッピングをしていようと気になるものは気になるのだ。
電車はそうして潜在的に俺の意識に刷り込まれる。好きと嫌いは同義であり、美しいものは同時にとても醜く、逆に「ドブネズミみたいに美しくなりたい」人もいることを思えば、この小豆色の体を震わせ騒音をまき散らして走っている阪急電車が好きでたまらない俺の気持ちにも説明がつく。さしづめこの街と俺をつなぐ架け橋といったところか。窓から見える眼下に広がる景色に電車の姿と音を加えてやると、たちどころにノスタルジックに心にしみ込んでくる。現在進行形なのに郷愁を誘う。いつかこの街を出たときにこの景色を思い出すだろう、という未来の目線からの郷愁なのかもしれない。あるいは目で見た景色が脳で情報として処理される間にすでに「過去」として扱われる超刹那的過去の連続なのかもしれない。ともかくそういう感覚を獲得したときにこの街は「我が街」となる。もちろんこの「街」というものは俺のものでもなければニコラス・ケイジのものでもない。「我が街」とはみんなのものという意味で、俺のものでもありモーガン・フリーマンのものでもある。そこには全能感も支配欲も独占欲もなく、人々の街への愛着があるだけだ。
Coldplayの「Viva La Vida」が無性に聴きたくなった。〜I used to rule the world〜から始まるこの歌は、全能感、独占欲、支配欲に苛まれた思春期を俺に思い出させる。そして未だその呪縛から逃れられない現在の俺に「奮い立て」とばかりにドラマチックに鳴り響く。いままでのColdplayからは考えられない劇的なアレンジで、生と死、希望と絶望、光と闇を叩き付ける。それらはコントラストではなく「同義」として描かれる。死を内包した生をかき鳴らすから説得力がある。これこそが「美しき生命」なのだ。
テレビでは、女の子が踏切で「彼氏はいません。一人もいません。好きなミュージシャンは多すぎて挙げられません。好きなバナナは食べ物で・・・」などと男の子に猛烈にアタックしている。大人になって「女性にも性欲がある」ことを実感として知った時少しショックだった。女性に幻想など抱いていないと自負していたのに、しっかりと抱いていたこと、自分で把握できていない「自分」がいることがショックだったのかもしれない。しかしこういった性欲なんてことを遥かに越えた異性への抑えられない気持ちがストレートに出ている若者をみるのは気持ちがいいなと初めて思った。なぜ人は同窓会でかつての友人とSEXをするのか、なぜ人は電話で「寝てた?」と聞かれたら「いや、起きてたよ。」と嘘をつくのか。なぜ人は「男ってさあ、」と自分の意見を全体化するのか。なぜ人はマンションの隣の部屋の鍵穴に間違って鍵を突っ込み、開かない開かないとがちゃがちゃして通報されるのか。なぜ童貞は「最後にHしたのいつ?」と訊かれると「秘密。」と答えるのだろうか。そんなことを考えるともなく考えながら俺は眠った。電車の音で途切れ途切れの「Viva La Vida」を子守唄に。
電車はそうして潜在的に俺の意識に刷り込まれる。好きと嫌いは同義であり、美しいものは同時にとても醜く、逆に「ドブネズミみたいに美しくなりたい」人もいることを思えば、この小豆色の体を震わせ騒音をまき散らして走っている阪急電車が好きでたまらない俺の気持ちにも説明がつく。さしづめこの街と俺をつなぐ架け橋といったところか。窓から見える眼下に広がる景色に電車の姿と音を加えてやると、たちどころにノスタルジックに心にしみ込んでくる。現在進行形なのに郷愁を誘う。いつかこの街を出たときにこの景色を思い出すだろう、という未来の目線からの郷愁なのかもしれない。あるいは目で見た景色が脳で情報として処理される間にすでに「過去」として扱われる超刹那的過去の連続なのかもしれない。ともかくそういう感覚を獲得したときにこの街は「我が街」となる。もちろんこの「街」というものは俺のものでもなければニコラス・ケイジのものでもない。「我が街」とはみんなのものという意味で、俺のものでもありモーガン・フリーマンのものでもある。そこには全能感も支配欲も独占欲もなく、人々の街への愛着があるだけだ。
Coldplayの「Viva La Vida」が無性に聴きたくなった。〜I used to rule the world〜から始まるこの歌は、全能感、独占欲、支配欲に苛まれた思春期を俺に思い出させる。そして未だその呪縛から逃れられない現在の俺に「奮い立て」とばかりにドラマチックに鳴り響く。いままでのColdplayからは考えられない劇的なアレンジで、生と死、希望と絶望、光と闇を叩き付ける。それらはコントラストではなく「同義」として描かれる。死を内包した生をかき鳴らすから説得力がある。これこそが「美しき生命」なのだ。
テレビでは、女の子が踏切で「彼氏はいません。一人もいません。好きなミュージシャンは多すぎて挙げられません。好きなバナナは食べ物で・・・」などと男の子に猛烈にアタックしている。大人になって「女性にも性欲がある」ことを実感として知った時少しショックだった。女性に幻想など抱いていないと自負していたのに、しっかりと抱いていたこと、自分で把握できていない「自分」がいることがショックだったのかもしれない。しかしこういった性欲なんてことを遥かに越えた異性への抑えられない気持ちがストレートに出ている若者をみるのは気持ちがいいなと初めて思った。なぜ人は同窓会でかつての友人とSEXをするのか、なぜ人は電話で「寝てた?」と聞かれたら「いや、起きてたよ。」と嘘をつくのか。なぜ人は「男ってさあ、」と自分の意見を全体化するのか。なぜ人はマンションの隣の部屋の鍵穴に間違って鍵を突っ込み、開かない開かないとがちゃがちゃして通報されるのか。なぜ童貞は「最後にHしたのいつ?」と訊かれると「秘密。」と答えるのだろうか。そんなことを考えるともなく考えながら俺は眠った。電車の音で途切れ途切れの「Viva La Vida」を子守唄に。
# by wanpa-blog | 2009-03-03 18:21 | 高杉征司